私 的 音 楽 道 楽

文/木村 慎一郎(スーパーコラムニスト)

 音楽雑誌などでよく見かける企画に無人島に出かける時に持っていくディスクを一枚だけあげよというものがある。もし実際に無人島に行くのならば他にやることもないだろうし、音楽中毒の身の上ではとても1枚や2枚のCDでは身が持たないのは明白である。スーツケースにつめこんでせめて50枚や100枚くらいは持参したいものであるが、こういう企画の趣旨は1枚というところにミソがあるのだろう。そこでヒマに任せてしばし考える。以前ならばあれもこれもと頭に浮かんで収まらなかっただろうが、最近ではじつはこれしかないというディスクがある。ビーチボーイズの『ペットサウンズ』。もしどうしてもCD持参は1枚以上まかりならぬということであればたぶんぼくはこのCDをカバンに入れて出かけると思う。

 このなんとも不思議な音楽に出会ってからもう10年近くたつと思うが、最初の印象は「なんだこの地味な音楽は」というものでしかなかった。全体的に暗く内省的なムードで「アイ・ゲット・アラウンド」とか「カリフォルニア・ガールズ」の明るくハッピーなビーチボーイズのイメージでこのディスクを買えばその期待は大きく裏切られるだろう。実際このアルバムは発表当時はファンやレコード会社はおろか当のビーチボーイズのメンバーにも正当に理解されなかったというエピソードがあるくらいだ。(じつはこのアルバムは他のメンバーがアジア・ツアーに出かけている間にブライアン・ウィルソンがほとんどすべてをひとりで作り上げてしまったアルバムなのだ)。幼いききてであったぼくが理解できなかったのも無理からぬところである。

 ただ、ぼくは社会人としてはいいかげんで不マジメなダメ人間だが、こと音楽にかんしてはとてもケンキョでマジメな人間である。普通のひとならば1回聞いて「なんだこりや、ツマラン」といって捨ててしまうアルバムでも決してそういうことはしない。逆につまらないと感じたアルバムほど一生懸命何度も繰り返し聴く。こういうところは本当に数少ない自分の美点だと思う。どんなひとでも触れたとたんにすぐに気づくことができる種類の美しさもあるが、ある種の美しさというものは、ぼくのような凡人の感受性では、忍耐や経験のフィルターを通さなければ発見できないものらしい。ぼくがこのアルバムの本当の美しさに気づいたのはつい最近のことである。10年間の間にぼくはずいぶんたくさんの音楽を聴いてきたが、その10年間に聴いてきたあらゆる種類の音楽の蓄積によってやっとこのアルバムの真価を感じとれるようになった気がする。こういうことは音楽オタクでいることの数少ない醍醐味だ。

 このアルバムの美しさを一言で言い表すとするならば、それはブライアン・ウイルソンという一人のミュージシャンの持つ、極限まで純化された残酪なまでのイノセンスが、類まれなる音楽的意匠をもって完璧に抽出されたということにつきる。たとえぱピートルズの『サージェント・ペッパーズ』は60年代のトータル・アルパムの傑作として「ペット・サウンズ」とほ双璧だと思うが、どちらかに軍配をあげよといわれればぼくは迷わず「ペット・サウンズ」にあげる。それは「サージェント・ペッパーズ」の方はあくまでも才能ある4人のミュージシャンがカを会わせて作り上げた合議による作品なのに対して、「ペット・サウンズ」はあくまでもブライアン・ウイルソンというひとりの人間の内面を赤裸々に写し出したパーソナルな作品であるという意味において、よりダイレクトに、シンプルに心につき刺さる力を持っていると思うからだ。「ペット・サウンズ」で展開される音楽的アイデアの豊穣さはほんとうにスゴイもので、所々にほとんどマーラーの交響曲のような響きが出てきたりするのだが、そこで表現される感情というものは、逆に信じられないほどピュアで無防備なのだ。そこでブライアンは、去り行く夏に、恐怖を感じているのである。良いことがすぺて終わってしまう、愛しいひとたちが自分のもとからみんな去っていってしまう。その孤独感と喪失感に心から怯え、悲鳴をあげ泣きじゃくっているのである。こういう結晶化され純化された赤ん坊のような無垢な感情が、これほど高度な音楽性を持ち完壁なかたちで1枚の作品に焼き付サられた例は空前絶後だろう。本当に奇跡のような美しさを持つ作品である。

 あるアーティストは「ペット・サウンズ」をロック史上いかなる作品ともゴールが異なる作品だと言った。本当に何度も聴けば聴くほどそこで表現されている底無し沼のような深さに圧倒され考え込まされてしまう作品、それが「ペット・サウンズ」なのだ。

無 意 識 の 中 の 幻 奏 楽

文/三浦 奈々依(フリーアナウンサー)

 “直感”で感じる音楽は、テレビやラジオといった個々のスピーカーを通して“耳”にではなく直接“体”の内部に入り込んでくるのかもしれない。無意識の中、突然に…

 人間は、マックス10億分の1秒で物を感じる生き物と言われているが、「いい!」と思える音楽は、まさに最速のスピードで私達の脳や心にダイレクトに語りかけてくるのではないだろうか。以前、人間の脳が知らない内にα波になる音楽は、世界中でインドのシタールとガムランだけという話を何かの本で読んだことがある。シタールとは北インドのハツゲン楽器で多数の共鳴弦があり、金属製の爪で演奏する。一方ガムランは、インドネシアのジャワやバリの伝統音楽。ゴングやガンバン等を中心とする器楽合奏でよく舞踊劇や影絵芝居の伴奏に使われる。私はまだインドを訪れたことはないが、バリは大好きな島だ。気持ちが疲れている時、よくガムランの音楽を聞いては、ゆったりとしたバリでの時間を思い出し元気をとりもどす。しかし音楽だけでなく、あの島は人間を“素”の状態に戻し、さらに脳をα波に導いてしまう不思議な力を持っている様な気がする。

 今、私の旅を思い返してみよう…

 空港に降り立ち足を踏み入れた瞬間、強烈な花の匂いを思わせる南国独特の甘い空気に包まれ、空の長旅も、仕事も、日常の全てまでもが一瞬にして何処かへ消え去ってしまった。

 バリといえば多くのサーファーが訪れる場所としても有名だが、山には“神”が宿り、海には“魔物”が住んでいると考えられているので、ビーチで女の子に声をかけている若いバリニーズや、サラサを売ったり、髪を三編みにしてくれる気のいいおばさん達を除くと、バリニーズはあまり海には近づかない。しかし海に沈む夕日をビーチから眺めるのは最高だ。この世のものとは思えぬほどの美しいオレンジ色の光が青い海にゆっくりと溶けて、やがて懐かしい匂いとともに音も無く、静かに夜が訪れる。また、島のいたるところには、ルピやお菓子、色とりどりの花が入れられた神様へのお供えが置かれ、人々は目覚めてから眠りにつくまで、毎日の幸せを感謝し祈りを捧げる。まさに神々の島ならではの光景である。そういえば観光客があまり訪れることのない海で、このお供えの竹のカゴを作っている女性と話す機会があった。ちょうど私の母と同じくらいの年齢だったと思う。

 彼女は古い小さなアーバーで、波音を遠くに聞きながら慣れた手つきで一つ一つ丁寧に竹のカゴを編み上げていた。「一日中カゴを編んでいて飽きない?」と私が尋ねると、彼女は日に焼けた顔をクシャクシャにして満面の笑みを浮かべながらこういった。「私は命を授かった喜びを、こうして神様に恩返ししているんだよ。」また、彼女の娘はニルーという名前でレゴンダンスのダンサーだった。やはりニルーも踊ることで神様に感謝の気持ちを捧げているのだと話していた。そんな幻想的な島で、背の高い美しいはすの華が一面に咲く池のほとりに腰を降ろし、きらびやかな衣装に身を包んだ楽隊が、一心不乱にガムランを奏でた瞬間、心の奥底まで響き渡る竹ガムランの音色に大地の匂いを感じた。そしていつしか体から“フーッ”と力が抜けて、演奏が終わる頃にはベッドで心地よい眠りにつく直前のなんともいえない“フワー”としたあの感じを味わっていた。脳からα波がでる…というのは、ああいった状態をさすのかもしれない。今、あの時の感覚を思い返してみると、私は耳を通して…というよりも、もっとダイレクトに音を感じていた。心に強烈な力をもって語りかけてくる音楽は、私達の中に眠る大切な何かを無意識のうちに刺激し、ノックもせずあっという間にドアを開けて、心の一番深いところまで降りてくる。あの日のガムランは、そのプロセスをまるでスローモーションのように私に見せてくれた。

 最速10億分の1秒のスピードで心に語りかけてくるものすごい力を持った曲は、どのようにして生まれるのか?そんなことをぼんやりと考えていたら、あるアーティストがコンサートで話していた言葉を思い出した。

 彼女は外でふと曲が頭に浮かんだ時、レコーダーや自宅の留守電に録音することは一切しないと話していた。曲が頭に浮かんでからたとえどんなに時間が経過しようが、その曲が自分にとって、また自分の曲を聞いてくれるみんなにとって、心をつかむ力強さを持っているならば、決してその音は部屋に戻るまで鳴り止むことはないと思う、そんなことを話していた。確かにダイレクトに心の深いところに入り込んでくる曲には、一度聞いたら忘れられなくなるものすごいパワーがある。それはきっと意識して生まれるものではなく、アーティストの言葉をかりれば、まさに「何かが一瞬おりてきた」といった感覚なんだろう。しかし次から次へと新しい作品を生み続けなければならない過酷な状況の中で、自分の中に浮かんだ音が、果たしてその音と自分が向き合える時まで鳴り続けていられるのか…そんな音の持つパワーをいつもクールに見定めている彼女の姿勢は、神への感謝の気持ちという純粋な心のもとに、物を生み出すバリの人々にとてもよく似ているかもしれない。去年、そのアーティストにインタビューをする機会があった。彼女にはこれまでライブも含め何度かお会いする機会があり、またインタビューとしては今回で二度目だった。同性から見てもドキッとしてしまう程の女らしさに、いつもいい意味で緊張感を感じる、私にとって特別なアーティストの一人である。今回のインタビューは、長いインターバルをおいてリリースになったアルバム中心のトークだったが、その何ヶ月か前にリリースになっていたシングルについての話は、とても共感出来るものだった。インタビューの中で彼女は、「手紙を書く人はどんどん少なくなっているのが現状だと思うが、その人の事を思いながら一文字一文字手紙をしたためる感覚を、私は忘れたくない」そう話していた。
メールや電話とは違い、手紙には確かな重みがある。
でも決して今この瞬間を相手と共有する事は出来ない。
手紙には時差がある。
手紙はいつも過去から届けられる。

 手紙という言葉のもつどこか悲しげな響きは、そういった理由からくるのかもしれないと、私は彼女の曲を聞きながらそんなことを考えていた。

 彼女の中で止むことなく鳴り続け、命を授かり生み落とされたこの曲は、きっと10億分の1秒のスピードでたくさんの女性の心に語りかけたに違いない。そして最速のスピードで私達の心に届けられた音楽は、今度は私達自身の中で止む事なく鳴り続け、いつしか懐かしい何かに出逢う度、思い出と共に変わらぬ力を持ってよみがえり続ける…