追 憶 の 美 学

文/三浦 奈々依(フリーアナウンサー)

 先日飲みに行った先で、ある人が私と友人にこんな話をしてくれた。
「人生80年と考えて、その内3分の1は眠りの時間。 差し引くと大体53年って計算になる。でも子供の頃の10年と年老いてからの10年は、精神的、肉体的についていかないから自分が自分らしく夢に向かって走ってゆける時間は、わずか33年ってことになるんだよね。

 人の寿命はわからないからその33年がもっと短い人もいるだろうし、そんな風に考えたらこのままじゃいけないって言いながらグズグズ悩んでるヒマなんてないんじゃないかなぁ。」

 友人は新しくやりたい事がみつかり10年以上働いてきた会社を辞めようかどうしようか悩んでいた。何の保証もない新しい世界に30の大台に乗ってから飛び込んでいくのはかなり勇気のいることだ。だがその一言で心が決まったようだった。帰り道、彼女は真っ白な息をはきながら「もう大丈夫!」と晴れ晴れとした笑顔で私に手を振った。別に転職をすすめたわけではないが(笑)、自分が自分らしく夢に向かって走ってゆける時間について考えたことなどこれまで一度もなかった。私は、妙にあせりをおぼえ、その時間をよりよく生きるにはどうしたらいいんだろうなどと、真剣に考えてしまったのである。

 往往にして、「よし、がんばろう!」と思う時というのは、外から何らかの刺激を受けた時である。それこそ誰かの一言だったり、がんばっている人の後ろ姿だったり、自分の心を動かす何かに出会った時。そうして辿り着いた答えが、毎日の仕事に追われ、気がついたら休日は家でパジャマのまま過ごしている人もたくさんいると思う。「このままじゃダメだよな〜」と思いつつも何をやりたいのかさえわからなくて、結局「いいことないかな〜」が口癖になって時間だけが過ぎて行く。年末になると「今年ももう終わり?」ってちょっとあせり、新年に新たな目標をたててはみるが長続きはしなくて何となく毎日をやり過ごしている人。夢に向かって走るというのは仕事に対してだけではない。それは家族と過ごす時間が幸せであるようにと願う心であったり、努力であったり、時には誰かの胸に飛び込む勇気だったりもすると思う。

 毎日を刺激的に生活するということではなく、ありふれた毎日であっても、今日は昨日の続き的な考え方ではなくて、心に刺激を受けながらいろいろな事を感じ、常に新しい気持ちで1日1日を送ることによって、自分にとって大切にしたい何かが見つかったり、再確認できたり、それこそ働きたい場所が見つかったりするのではないだろうか。

 私個人では、人との出会いに一番心を刺激されている。友人や先輩、毎週番組を通して出会うアーティストとの会話や曲の世界。人ばかりではない。朝の清々しい空気や、家の庭に咲く小さな花に心を動かされることもある。

 そしてもうひとつ私の心の大きな刺激剤になっているのが映画だ。映画は心の深い場所を刺激する。スクリーンの中の登場人物にやる気をもらったり、忘れかけていた夢を思い出したり、映画は懐かしい時間を運んでくれたり、逆に未来の風を届けてくれることもある。いい映画を見終わった後というのは、まるで旅先で新しい空気を胸いっぱい吸い込んだような気持ち良さと満足感がある。それにほんの2〜3時間映画館の中でスクリーンの世界にふれただけで、映画を見る前の自分とちょっとだけ変われたような気がするから不思議だ。

 父は幼い頃、私や妹をよく映画に連れていってくれた。父と一緒に見た映画の中でも、特に心に残っているのは「キングコング」だ。幼かった私は、スクリーンに映し出されるキングコングの迫力に度肝をぬかれ、夜なかなか寝つけなかったらしい。今まで見た事も想像した事もなかった世界に、私の目はスクリーンにくぎ付けになった。そしてラストで彼の大きな心臓の音が静かに終わってゆくのを聞きながら、子供ながらに悲しい気持ちで胸がいっぱいになったことを覚えている。映画が終わってもずっと私は泣いていた。父は、「動物にも心があるんだよ。だからひどいことをしちゃいけないんだよ。」そう言って私の頭を撫でてくれた。そして、「みんないつかは天国へ行く。キングコングも天国で幸せに暮らすから大丈夫、大丈夫。」父は、大きな温かい手で、私と妹の小さな手を包んでくれた。

 今思うと、キングコングは人間だけではなく、全ての動物達に心があることを、幼い私に教えてくれた。これは余談になるが、あのキングコングの生みの親”ウイリアム・H・オブライエン“は、人間の勝手でニューヨークまで連れて来られ、最後には映画の中で殺されてしまったキングコングを可哀相に思い、その続編ともいえる映画 「猿人ジョーヤング」 の中で彼にハッピーエンドをプレゼントしたそうだ。この映画の中で猿人ジョーヤングは、愛に包まれ故郷アフリカへ帰ってゆく。きっとキングコングのラストに涙したたくさんの人達は、ジョーヤングの幸せなラストシーンに心を救われたに違いない。

 そしてもうひとつ私の心に残っている映画をご紹介すると、”ロバート・レットフォード、バーブラ・ストライサンド“主演で、アメリカ公開ではコロムビア映画始まって以来の大ヒットといわれた「追憶」である。私の父や母の世代がリアルタイムで見た映画だが、私が初めて「追憶」を見たのは二十歳の頃だった。テレビで放送されたのを家でたまたま見てしまった、という感じだったと思う。正直言って初めてこの映画を見た時、何とも言えないせつなさは感じたものの、意味が良く理解できなかった。ストーリーとしては考え方も生き方も全く違う二人が、大学卒業後に再会し結婚をする。その後幸せに満ちた平和な生活を送るのだが、結局最後に生き方の違いから愛し合いながらも別れを選んでゆくという、20年間に渡る二人の愛の喜びと悲しみを描いた物語である。あの頃の私には、そういう別れが全くもって理解できなかった。

 だからといってあれから二人のような別れを経験した訳ではないが、10年のインターバルをおいてもう一度「追憶」を見直した時、つきなみな言葉だが本当にすばらしい映画だと思った。ラストシーンで二人は、ニューヨークの街頭で偶然の再会を果たす。その時バーブラ演じるケイティは、学生時代そのままに政治活動を続けていた。一方ロバート演じるハベルはTVのシナリオライターとして成功をおさめる。彼の隣には、学生時代の恋人にそっくりな上品で可愛らしい奥様が寄り添っていた。二人はさり気ない会話を交わしただけで別れてゆくのだが、全ては思い出の中にひっそりと生き続けてゆく…そう思うと切なくなった。しかし、互いの生き方を尊重し別れを選ぶ二人は、その後の人生を自分らしく生きていた。私が、そうゆう別れ方を理解できるくらいに、自分が大人になったことを気づかせてくれた映画である。映画は人と一緒に成長してゆくのかもしれない。

 これからまた何十年という時間が流れた時、私はこの映画を見てどんな事を思うのだろう。
今回は私の心に残る映画についてとりとめのないことを書いてしまったが、1日1日をより良く幸せに生きてゆくということについて、私なりに考えた結果、映画は人々を刺激する心のジムのようなものかもしれないと思ったのである。幸せになるために必要なことは、幸せを見つけようとする努力ではなく、幸せを感じる心だと昔誰かが話していた。

 たくさんの映画にふれることで、自分の中に眠るいくつもの可能性や子供の頃誰もが持っていたあの純粋な気持ちが、「おはよう」と眠い目をこすりながら目覚めてくれたら、私達はもっとたくさんのことを感じ、今よりもっと広い世界にゆけるのではないだろうか。

 そしてあの33年を、思いっきり自分らしく生きてゆけるのかもしれない。

永 遠 の エ ヴ ァ グ リ ー ン

文/木村 慎一郎(スーパーコラムニスト)

 先日中古CD店で、以前から探していた「トイ・ストーリー」のサントラCDをついに発見した。「2」のサントラはすでに入手していたが、「1」の方が品切れで、なかなか見つからなかったのだ。中古店で発見したそれは国内盤だったので、主題歌は、ランディ・ニューマンの英語ヴァージョンと、ダイヤモンド☆ユカイの日本語ヴァージョンが、両方入っていた。この主題歌の「きみの友達」という歌がぼくは大好きなのだ。作曲者ランディ・ニューマンの枯れた味わいの渋い歌声もよいが、ダイヤモンド☆ユカイの若気のいたりなシャウトも悪くない。どちらも甲乙つけがたいが、ぼくが車の中でいっしょに歌うのはもっぱらユカイくんの日本語ヴァージョンの方である。毎朝会社に向かう車の中でこのCDに合わせて歌うのがぼくの今の日課になっている。大声で「思い出せよ〜ともだち〜を〜」と歌いながら、このすばらしい映画の数々の名シーンの追憶に浸っているというわけだ。

 「トイ・ストーリー」シリーズの魅力をひとことで言い表すのは難しい。第1作をヴィデオで見た時の感動をぼくは忘れない。じつは見る前はほとんど何も期待してはいなかった。史上初のフルCGアニメというふれこみだったが、ぼくはこのテの「史上初」とか、「画期的」とかいう謳い文句にはいつも眉に唾をつけて身構えてしまうタイプなのだ。そういう映画はたいてい仕掛けが派手なわりには、肝心の内容がどうでもいいようなものが多く、この映画もどうせろくなもんじゃないだろうという先入観をもっていたのだ。しかし「トイ・ストーリー」は違った。話が進むにつれて、CGアニメのおもちゃのキャラクターたちに、いつの間にかぼくは激しく感情移入していたのである。ラストシーンの、バズとウッディが一緒に空を飛ぶシーンのバズの名セリフ(『飛んでるんじゃないよ!かっこつけて落ちてるだけさ!』)に至っては、あろうことか感動のあまり鼻の奥がつーんと来てしまったほどだ。これは予想外だった。「トイ・ストーリー」はこのすれっからしの映画ファンの心の琴線をはげしく揺さぶったのだった。

 「トイ・ストーリー」は、一般的にはフルCGアニメとしての技術的な側面ばかりが強調されるきらいがある。しかし、それがこの名作の美点のすべてではない。この映画の美点は、なによりも「ディズニー・アニメ」の王道を行くその正攻法のつくりである。「トイ・ストーリー」の原型には、まぎれもなく1940年のディズニー・クラシックス「ピノキオ」の影響があるのは、誰の目にも明らかである。ちょうど優れたロックンロールのミュージシャンが、エルヴィスやチャック・ベリーといった偉大な先達の仕事に常に敬意を払い、それらをきちんと踏まえたうえで自らの音楽を構築するように、この作品のジョン・ラセター監督が、相当丹念に過去の「ディズニー・クラシックス」の諸作品を研究したうえで、「トイ・ストーリー」の制作にとりかかっただろうことは想像に難くない。結果としてこの超ハイテクの衣装をまとったフルCGアニメの中身は、「ピノキオ」や「スノー・ホワイト」や「ダンボ」などと同様に、徹頭徹尾、ウオルト・ディズニーのフィロソフィが宿った、ある意味では、驚くほどクラシカルな「スタンダード」作品になった。そのことにぼくは心底感服させられたのである。

 ではウォルト・ディズニーのフィロソフィーとは何か?それは、健全でオーソドックスな世界観を、徹底したマニアックなディテールで補完する、ということだとぼくは考えている。ディズニーランドに行ったことのある方はみなさんご存じだと思うが、あそこの凄いところは、どんなディテールでも決して手を抜かず、徹底して考え抜かれているというところである。この「トイ・ストーリー」でも、その精神は存分に生かされ、細部のこだわりぶりは尋常ではない。

 たとえば主人公のおもちゃ、ウッディ、このおもちゃの元になったTVショー「ウッディズ・ラウンドアップ」の内容については「2」で詳しく語られるが、さまざまなキャラクターグッズからカントリー調のTV主題歌まで、おそろしく入念に作り込まれており、めちゃくちゃ楽しい。相棒の「バズ」にしても、元となる「スペース・レンジャー」が活躍する架空のテレビアニメ番組まで、わざわざご丁寧にディズニーは作ってしまった。ただしこれをビデオ化して売り出すところなどはいささか悪ノリしすぎの感もあるが、ぼくのようなおたく体質の人間はついついこれも買わなくちゃ・・・と脅迫観念に駆られてしまうところが悲しい。

 声優陣の選択もふるっている。たとえば、気の弱い怪獣レックス役のウォレス・ショーン。この人はウディ・アレンの映画の常連で、たとえば『マンハッタン』では「前の夫は最高にセクシーな男で、特にベッドでは最高だった。」と恋人のダイアン・キートンが散々自慢するので、ウディ・アレンがいったいどんなマッチョな男が登場するのだろうと思っていると、実際現れたのが、禿頭で小男のウォレス・ショーンで、ウディの目が点になるというようなシーン(笑)、こういう場面に出てくる、とてもチャーミングですてきな役者さんである。(余談だが、この『マンハッタン』という映画、モノクロのカメラで切りとったNYの風景がすごくきれい!このB/Vの写真が動き出したようなかんじです。)ほかにもアルのおもちゃ屋の社長役がウエイン・ナイト(『氷の微笑』での怪演が記憶に新しい)だったり、ポテトヘッド役がドン・リックルズ(有名コメディアン。ちなみに日本語版は名古屋章。)だったり、このへんの役者の選びかたもじつにこだわっている。

 それからもちろん主演のトム・ハンクスと、ティム・アレン!この二人の声の演技のうまさ!この掛け合い漫才のような呼吸のすばらしさは、本当におかしくておかしくて涙が止まらない。日本語吹き替え版での唐沢寿明と所ジョージもむろん健闘はしてはいるが、やはり大人のみなさんは、是非オリジナル版におけるトム・ハンクスとティム・アレンのオスカーものの演技を味わってほしい。本当に、この映画で彼らは役者生命をかけて(かどうかは知らないが )その手練のすべてを開陳しているといっていい。

  「トイストーリーという映画の奥行きの深さは、こどもに見せるだけでは本当にもったいない。大人の映画通の心をくすぐる仕掛けが随所にある。しかし何より凄いのは、このマニアック映画があくまでも「カルト」ではなく、スタンダードなディズニーアニメだという点である。100年後の子供たちも、今の我々と同じように、この映画を見て、そのエヴァー・グリーンな輝きに感動するはずである。なぜか。「トイ・ストーリー」は時が流れてもけっして変わらないもの、変えてはいけないものを正面から見据えている映画なのである。ピクサーというコンピューター頭脳集団が、最新のテクノロジーを使ってかたちにしたものが、その永遠に変わらぬウォルト・ディズニーのフィロソフィーであることに、ぼくは心から感動してしまうのである。